プロフィール

AkkyFirenze

Author:AkkyFirenze
2004年から、Firenzeに妻のKAZUとネコのLEOと住んでます。
オペラが大好き。ピアノもちょっと弾きます。
楽しみは美味しいワインと料理、ピアノ伴奏。

この頃ブログよりFacebookに書くことが増えましたねぇ。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

携帯電話の修理

携帯電話の修理がやっと終わって手元に帰ってきました。
2週間ぶりだけど、デ-タが全部消えてた。
電話帳はカ-ドにコピ-してあったから良かった。

修理が済んだ連絡を、修理中の電話の番号にかけてよこしたみたい。
代替もよこさないで、連絡とれるはずないでしょ!!!
スポンサーサイト

射殺事件から思うこと

イタリア人の一人がセネガル人を射殺し、本人も自殺しました。
フィレンツェの街の真ん中、サン・ロレンツォのメルカートと、ちょっと離れているけれどダルマツィアでです。
人種差別からでしょうか?
確かにメルカートには黒人が屯しているけれど、あれが全部セネガル人でもないでしょう。
少なくとも私にはどこの国の人か分かりません。
白人でも北の方の人か南の人かの区別は付くけれど国名まではなかなか。
我々東洋人も日本人か中国人か韓国人かよく間違われるし、私が見ても一寸見分けられないこともあります。

犯人は極右翼に属し、鬱病だったようだけれど、セネガル人との関係は何だったんでしょう?
特にイタリアのこの経済不況、ユーロの弱体化、政治の無力化などの原因で、移民に厳しい目を持っていただろうことは想像出来ます。
イタリアにおける極右は、世界大戦時のファシズムで姿を見せたし、今後も何時暴発するか、危険をはらんだその国民性を用心して見ていなければいけません。

これは、日本人も同じように、ファシズムに走る要素を心の奥に秘めていることは、あの悲惨な戦争を思い起こせば否定出来ません。
現在の不況、災害から来る社会不安は、今回のイタリア人のように極端な方向に走らせる心配があります。
群れることが好きで、他人と同じでなければ生きられない日本人の性格は、危険な集団に膨らむ可能性があります。

しかしここではイタリアや日本、世界中の人たちの賢さを信じ、亡くなったセネガル人の冥福を祈りたいと思います。

私たち人間は常に不安や不満を抱えて生きています。
どんな社会で生活しようと、それが全くなくなることは、絶対にありません。
たとえ楽園に住んでいても、不満や懐疑からはアダムとイヴのように逃れられないのです。
私たちはその不安や不満を克服して、生きていかなければなりません。

人種差別を不満解消の対象にしてはいけません。

隣人を愛すことは大切なことですが、「愛すること」とはどんなことなのでしょう?
道ばたに座っている物乞いに恵んでいる人たちは、その行為によって自分が救われるのでしょうか?

今回の事件から、人間、宗教、社会、歴史・・・と考えてしまいます。
私の心配が杞憂にすぎないことを願います。

浜岡

地震、そして原発問題をきっかけに、”浜岡”が話題の中心になってきました。
正直言って、原発の扱い、エネルギー問題については自信を持って言葉に出せません。
でも”浜岡”には縁があるのでそのことを書きます。

私の母が浜岡の生まれなのです。
かつては、静岡県小笠郡佐倉でした。
母の生まれたのは佐倉の雨垂(うたり)です。
今原発があるところのすぐ近くです。
叔父夫婦が住んでいたけれど子どもがなく、養子に継いで貰いましたが、叔父叔母が亡くなって一家は別の土地に引っ越してしまい、今は佐倉には関係者はいません。
墓があるので時々覗いてみたこともあるけれど、実家のあったところも新しい家になっています。

夏休みなどに、叔父のところによく遊びに行き、それこそ今原発がある辺りの海に連れて行って貰って投網で魚を捕ったりしたものです。
母の子どもの頃は岩牡蠣を採ったりもしたそうです。

ちなみに父は、御前崎白羽の出で、静岡市で教員をしていました。
父は次男だけれど、長男が病弱だったので早く亡くなってしまい、家を継いだようです。
父の墓と私の家の墓(私は次男で分家になるので)もあります。
ともに今では御前崎市と言っても端と端で、車で20分はかかる距離です。

ですから本当に馴染みのある土地ですが、御前崎は港が整備され、浜岡は原発が出来、道に迷うほどです。

確かに原発なしで済まされれば安心です。
でも原発で働いたり、その周りで店を開いていたりした人はどうなる?
明らかに電力が減る部分はどうする?
私たちの気がつかない問題が原発廃棄によって生ずるでしょう。

浜岡だけではないです。
危険なことは地震とか津波の影響だけではないと思います。

皆さん、よ~く、よぉぉぉぉく考えましょう。

浜岡の血が流れているので、余計に気になっています。

テーマ : 日記
ジャンル : その他

Alitaria関西空港へ

成田発のAlitaliaが関西空港発に変更になりました。
Kazuちゃん大変だ!

成田発10時の予定だったから、前泊の予約を入れていたホテルをキャンセルしなきゃ。
ところがホテルのメールがダウンして、電話でなきゃダメ。
キャンセル出来ました。

関西空港まで行ったことないから、調べなきゃ。Flightは14時と遅くなったから、朝家を出ても何とかなりそうです。
でも前の日に近くまで行っておいたほうが安心だし、先日も行った京都にIちゃんがいるから、またお邪魔します。
京都からなら特急一本で空港まで行けます。

ネットで関空?Romaの変更は確認出来ました。でもRomaからの便には間に合いません。そしてキャンセルされてる!
H.I.Sからは、次の便に変更されて連絡をもらってます。
これも再確認しなければ、安心出来ません。
今日はイタリア150年記念で特別休日。
頼りのH.I.Sもお休み。コレは会社の仕事じゃなくて、友人としてお願いして再確認して貰います。

家から空港までスーツケースを運ぶのって大変だから、宅急便をお願いします。
でも成田までは届けられる保障がないからと断わられました。
関西空港なら大丈夫。受けて貰えます。

これで何とかFirenzeまで辿り着けます。

大災害

私の住んでいた家は1945年6月19日の空襲によって焼けた。
姉の押す乳母車に3歳上の兄とともに乗せられて、市街地から離れた。
途中近くに焼夷弾が落ち、道路脇の田んぼに乳母車ごと落ちた。
又、姉が注意しても兄は乳母車から顔を出して、飛行機を見上げていたと、後々よく言われていた。
私は2歳半の時のことだから、何も記憶にない。

その後のことも飛び飛びにしか思い出せない。
近所の家に部屋を借りて、一家5人が一間に寝起きしていた。
父が小学校の教員をしていたので、教員住宅にもいたことがある。
そして家を建てたのが1952年。
小学校5年の時だ。
生活はいつ頃から落ち着いたんだろう。
無一文から教員の給料と、母の和裁の手間賃で家を建てたんだからかなり苦しい経済状況だったんだろう。
でも、世の中、周りはみんなそんな生活だったし、又何もない時代だから食べるもの以外欲しいと思うものはなかった。サツマイモだけの食事なんてことも当たり前。
明るい内は外で走り回り、夜はラジオで落語や歌謡曲を聴く。
日曜日には時には映画館に連れて行った貰って、ワイズ・ミューラーのターザンや嵐寛鞍馬天狗を楽しむ。
そんなシンプルな生活だった。

今回の地震!
被災者の方々は着の身着のまま逃げだし、家を流されたり焼かれたり、まさに戦後のような状態だ。
どこから手を付けて良いのか、頭の中は呆然と何も考えられないだろう。
ただ、周りにはまだ豊かな社会がある。
国や無傷だった人たちの応援がある。
60年前の焼け野原の時代は、日本国中何もなかった。
しかし、日本はここまで復活し、美味しいものを食べながらダイエットを考え、綺麗で便利な家に住み、しゃれた着物を着け、夏は寒く冬は暑い部屋に住んでいる。

消費社会で生活していた被災者の方々にとって、今の生活は苦しいでしょう。
食事はあれは嫌だこれは嫌だと文句は言えない。
トイレも水がないと悲惨。
当然風呂も入れない、髪も洗えない。
テレビも寛いで見られない。
その上停電!

でも頑張って下さい。
戦後は10年掛かった復興でも、この災害からはもっと早く立ち直れると思います。
国や多くの皆さんの援助があるから!

そしてこの機会に、日本国民はこの消費社会を見直し、未来を設計し直した方がよいと思われますが。

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。